なぜ「神農直隆」なのか?

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      井上芳雄の新たな挑戦! 『1984』で小川絵梨子が攻めの演出

      幕が開いてしばらくは左脳で物語の内容や演出意図を理解しようとするのだが、ある瞬間から脳のスイッチは完全に右脳に切り替わり、目の前で起きる出来事にただ震撼させられる……新国立劇場で上演中の舞台『1984』はそんな作品だ。

      国民はテレスクリーンと呼ばれる装置で監視されており、絶対的な支配者である”ビッグブラザー”に否定的な発言をしたり行動を見せた途端、思考犯罪者として投獄され拷問を受ける。 そんな全体主義に疑問を抱く役人、ウィンストンの仕事は歴史の改ざん。政府に都合の悪い事実を抹消し、国の秩序を守る日々を送る中、ますます彼は体制に疑問を持ち、党中枢の立場にいながらじつは反体制派だと語るオブライエンと行動をともにする。 真実省フィクション局に勤務するジュリアと恋に落ちたウィンストンは、彼女と秘密の逢瀬を重ねるのだが、それが政府に知られてしまい、事態は意外な方向に――。これまでウエストエンドやブロードウェイで上演されてきた本作だが、ブロードウェイでの上演時には、そのショッキングな演出で失神したり途中退場する観客も多数……と、なかなかハードな情報が流れてもきた。演劇の次期芸術監督であり、今もっとも注目される演出家のひとりである小川絵梨子はどう料理したのだろうか。 ウィンストン役の井上芳雄は自身の正義に忠実であろうとする役人を真摯に演じる。井上がこの規模の劇場でストレートプレイに出演するのは久々だが、大劇場でのミュージカルに比べ、身体の隅々まで観客に晒される中、きちんと芯が通った立ち姿は美しかったし、なにより彼が持つ誠実さや清廉さがウィンストンという役に生きていると感じた。井上芳雄という人間の中に”正しさ”がきっちりあるからこそ、ラスト近くのあの展開がより生々しく、そして恐ろしく迫るのだとも思う。 ジュリアを演じるともさかりえは、良い意味で生活感がまったくないミステリアスな女性を好演。 先にも記した通り、オーウェルが小説『1984』を書いたのは1948年……今から70年も前のことだ。

      オーウェルが描いた暗い世界は2018年を生きる私たちに怖いくらいのリアリティを持って迫ってくる。……二重思考、ニュースピーク、テレスクリーンでの監視、仮想のテロリスト、2分間のヘイトタイム、全体主義……。この小説がトランプ政権発足後、アメリカでふたたびブームとなったことに驚く者はいないだろう。観客は舞台上で行われることを”芝居”として体感する、当たり前に。ある場面でそれまでただの観客=傍観者として安全な客席に座っていた私たちは”当事者”となり、目の前……101号室で起きていることが虚構なのか現実なのか恐怖と戦いながら必死で確認しようと震えるのだ。

      明後日プロデュース第2弾公演『名人長二』が開幕! 主演・豊原功補が落語をベースに狂気と美意識を舞台に

      会場は、落語会の開催も多い新宿の紀伊國屋ホール。共演は、高橋惠子、山本亨をはじめとした実力派キャストたち。初日の幕開けを数時間後に控えた、本番さながらの通し稽古より見どころをレポートする。 ステージの中央に低い木製の台があり、その上に座布団が敷かれていた。一度暗転し、開幕と同時にスポットライトが照ら出したのは、座布団の上の落語家。 実は、このオープニングは、先日稽古場を訪ねた際に一度見学していた。かかわらず、思わずカメラのファインダーから目を離し確認したほどに、豊原は別人に仕上がっていた。しかし落語でこれを聞いても、その姿をクリアに想像できる人は限られているだろう。本作は、原作にあるこのような表現を、可能な限り再現しているという。円朝が思い描いた小粋な装いの幸兵衛に、悪人と知りつつも惚れ惚れした。 高橋惠子が演じるお柳は、浮世絵の美人画からモデルが抜け出てきたよう。衣装だけでなく、佇まいや所作のひとつひとつに目を奪われる。過去に思いを馳せるときの表情、煙管をもつ指、何気なく傘をたたむときの身のこなしにも、美意識を感じた。 多彩な衣装とは対照的に、小道具やセットの数は多くない。白い扇子をキセルやお箸に、手ぬぐいをキセル入れやお財布に見立てるのは、落語へのオマージュだろう。想像の余地を残すセットだからこそ、音響や照明の演出効果は大きく響く。晩春の風を感じ、障子だと思っていた格子のついたてが緑に染まった時は、長二の運命を狂わせた竹林に投げ込まれた感覚に陥った。 劇中で重いシーンが続くと、落語のくすぐりのようにコミカルなやりとりが挟まれる。この先しばらくは、落語に丁稚が出てきたら菊池均也の、町奉行が出てきたら山本亨の顔がちらつきそうだ。

      シーンとシーンをつなぐのは、唄と三味線の生演奏。そして、全体の要となるベテラン俳優らの”ひとり語り”。役者ひとりひとりの力量なしには成立しないこの構成に、豊原が共演者たちに寄せる絶大なる信頼を感じた。それに応えるように、梅沢や花王は語り部のような凄みをもって、モロ師岡は本物の噺家のような心地よい言葉つきで、それぞれがお互いの個性をひきたてながらその役割を果たしていった。経験豊富なベテラン俳優陣に埋もれることなく、神農直隆、岩田和浩、牧野莉佳ら若手キャストも、各々の役柄を生き生きと演じる。森岡龍は、傷と影を抱えながらもお調子者然として生き延びる、弟弟子の兼松役を務めた。 落語を知らなくとも見どころの尽きない舞台だ。

      しかし古今亭志ん生や、五街道雲助らの長二郎に馴染みがある方ほど、衝撃の展開の『名人長二』になるだろうそして親子の愛憎だけでなく、長二は本当に狂気していたのかもしれないと考えさせられる“一席に”なるだろう。

      豊原功補が圓朝落語『名人長二』の舞台化に挑む! 明後日プロデュース第2弾、男も女も惚れる世界観

      『名人長二』は、落語中興の祖と称される三遊亭圓朝が発表した新聞の連載小説だ。

      モーパッサンの短編『親殺し』に着想を得て執筆されたとされている。

      今回の舞台化にあたっては、豊原功補が企画、脚本、演出も手がけている。

      キャストが顔を揃えた通し稽古より、本作の見どころをレポートする。弟子となり、名人の名を得た、長二郎という指物師の物語だ。

      から、長二は自分が捨て子であり、背中の古傷が実の親に竹藪に放り捨てられた時にできたものだと知らされることになる。そして、産みの母親と思われるお柳(高橋惠子)だった。長二は向こうが名乗り出るのを待つのだが……。 この舞台では、脚本だけでなく演出にも落語を意識した遊び心がちりばめられている。

      言葉つき、リズム、話の途中で羽織を脱ぐ身のこなしは、本物の噺家のよう。狂言回しのようなこの役回りはモロ師岡へ、さらに次の役者へと、寄席の出番が回るようにバトンタッチされていく。長二に仏壇づくりを発注する場面では、懐から出した手ぬぐいを設計図に見立てていた。3台の組み合わせと並べ替えで、セットチェンジしていく。これだけ多いと印象に残らない役も出てくるものだが、いずれの役も個性が際立っていた。 若手役者同士の瑞々しい掛け合いも、大事な役割を果たしていた。関係性は一筋縄ではいかないラストへの伏線となる。深い洞察に立脚した、豊原にしかできない長二を創り出そうとしている。

      劇中の台詞を借りるなら、長二は竹を割ったような了見の男だという。ならば圓朝よりも、豊原の長二の方が、美学を貫き筋を通してはいないだろうか。そうまで思わされる豊原の迫真の演技と、脇を固める名演に圧倒された約2時間。セットも照明演出もない稽古場だったが、ラストには目頭が熱くなった。

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