なぜ「鳥羽殿」なのか?

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      京都伏見・乃木坂46「新曲センター深川麻衣さん」最後の京都握手会にファン多数

      発売記念握手会を京都パルスプラザ(京都市伏見区竹田鳥羽殿5)で2016年5月4日から5日まで期間実施した。 今回の握手会は、同曲のセンターで2016年(平成28年)6月15日から16日までの間、静岡県のエスパアリーナで卒業コンサートを行う、深川麻衣さんの京都最後の握手会となる。 乃木坂46は秋元康さんがプロデュースするアイドルグループとして2011年(平成23年)デビューし、深川さんは同グループの第1期生オーディションに合格後、中心メンバーとして活躍してきた。京都と関西のファンの方が卒業しても、また来てくださいと、言っていただけて凄く嬉しい。ぜひ一度ゆっくりと友達や家族と京都に来てみたい。メンバーとは、いつもいつも毎日会っていたのが、そうでなくなるなが今はまだ実感がない。 同イベントが終了すると深川さんが出演する関西及び京都での握手会やイベントはなく、今日が最後の握手会となっていた。 深川さんの人柄を反映するように、どのメンバーよりも長い列を作り笑顔と涙で見送るファンが印象的であった。乃木坂46深川麻衣のじわっとくる存在感がたまらない。 乃木坂46のメンバーで愛称は、まいまい、聖母。

考察。「鳥羽殿」とは何か?

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GGRYみんなの意見

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  • グリグラさん: 鳥羽さんと殿のバチバチが懐かしい
    > https://t.co/7GRJ1dDS1P

    - 11 日と 13 時間 57 分 42 秒前
  • 平行盛さん: 春宮大夫家能卿、鳥羽殿にまいりて、めしにつかはすといへどもまいらず。六日官人等をのをの余勢を卒して方々へまかりむかふ。その中に安芸判官基盛は、三百余騎にて宇治橋守護のために大和地をみなみへむきてぞあゆませける。 - 11 日と 17 時間 12 分 39 秒前
  • 藤振@寺社巡り好きな一期さん: 寺社名:上石原宮八幡神社御神祭様:仁徳天皇新選組局長近藤勇殿の生まれ故郷の地の鎮守の神社です。住宅地にありながら、とても緑豊かなんですよ。戊辰戦争鳥羽伏見の戦い敗走後に甲陽鎮撫隊を率いて上石原宿に到着した近藤勇殿は、この神社の方角に拝礼し、戦勝祈願したと伝えられています。 - 11 日と 21 時間 24 分 55 秒前
  • 備忘録さん: 藤原信実:鎌倉時代の歌人・画家。父は隆信、父の異父弟は定家。後鳥羽・後堀河院の時期に似せ絵を描きまくっている。代表作は<後鳥羽院像><随身庭騎絵巻>。後鳥羽院の御幸や水瀬殿の四季などを描いたとされるが現存しない。鎌倉時代の似絵の流行は信実に拠るところが大きい。 - 11 日と 21 時間 54 分 55 秒前
  • UTYNさん: かしらってもしかして清盛における西行みたいなポジションなのでは?待賢門院に手を出し愛を教えて、自我を芽生えさせて鳥羽院に対する想いに気付かせた西行みたいに、殿に愛を教え自我を芽生えさせて井伊への想いに気付かせる役割。鳥柄衣装がかしらと別れた後ならもしかしたら但馬。 - 14 日と 12 時間 50 分 40 秒前

    「鳥羽殿」に関するブログ
  • この句は、明和5年(1768)8月日句会の句だそうですので、歴史的事件に対しての想像句…詠史句といわれるそうな…なんです。
    その歴史事件も保元(1156年)・平治(1159年)の乱だとか、平清盛が後白河院を突如鳥羽殿に押し込めた事件だとかの意見がありますが、私にはどっちとも…ただ、保元の乱が7月、平治の乱は12月、清盛の事件は11月らしいので、これらも陰暦でしょうか?
    だとすると「野分」の季語から7月の方が合うような気がしますが…はっきりは分りません。

    http://blog.goo.ne.jp/kanekuti3515/e/dbb27205923afb87eca5bb87522ad09a


  • 白河院(しらかわのいん 1053-1129)第72代天皇。
    鳥羽 鳥羽殿
    白河上皇が今日の南郊鳥羽に建てた離宮。

    http://btar34.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-d1c2.html


  • 安陪晴賢は、「昔、朝廷の修理部門の木工寮の建物が風で倒れました。
    最近では、鳥羽殿が洪水で壊れました。
    どちらも修理の儀式に従って建てましたが、柱や棟木の交換程度ではありません。

    http://adumakagami.cocolog-nifty.com/blog/2017/05/271228-963b.html


  • ところ 京都パルスプラザ (京都府総合見本市会場)大展示場
    京都市伏見区武田鳥羽殿長5

    http://blog.goo.ne.jp/betty41/e/9276e9215759b9089851cd7bcae6a6d5


  • 都の南に位置し、そこを守護する方除の神社としての役割も担っています。
    さらに平安時代には、白河上皇が、鳥羽殿という離宮を作り、院政を行った舞台でもあります。
    そこには、平安時代を物語る雅な庭が造営され、その面影を今も感じることができるお庭が広がります。

    http://blog.goo.ne.jp/mimoron/e/606f31d8bd2234e8ed68e4be1ee66dcc


  • 「鳥羽殿」に関する教えてGoo!
  • こんにちは。
    蕪村の名句と言われるものにこのような句があります。
    「鳥羽殿へ五六騎急ぐ野分かな」
    蕪村の想像の句でしょう・・・
    それでも往時を偲ばせて面白いのです。


    ただ色々な解釈は出来るのでしょうね。
    どう、解釈されますか?


    私は、与謝蕪村は、なんだかとても合理的で、”菜の花”などの世界観も、男性的かつ整合性があって、柿本人麻呂を思わせるように感じていました。

    ”月と星が夜の川を渡る”、という情景に似ています。

    出身が大阪ときいて、なるほど、と頷いています。

    ニテンズさんのご質問がなければ、背景を調べることもなかったでしょう。
    江戸時代後期の大阪といえば、各藩の蔵屋敷があったりして、経済的にも、文化的にも、江戸をリードしていたでしょう。近松門左衛門をはじめ、上方の浄瑠璃・歌舞伎作者が、和事=義理人情の芝居の分野を切り開いて、江戸文化に強い影響を与え続けていました。

    その、大阪出身で、上田秋声と親交があった。。。
    ということで、回答をしてみようかなぁ、と踏ん切りをつけました。


    雨月物語は、江戸好みの、怪奇小説集ですが、その中に”白峰”という段があり、崇徳上皇の白峰陵を訪ねる西行の話で、実際に崇徳さんと西行さんが言葉を交わします。そんな物語を書いた秋声に感化された一句だったように感じたからです。


    保元の乱の前後、崇徳上皇と西行法師の生きた時代は、藤原氏の摂関政治から院政へ、そしてやがて武士が政権を取ってゆく過渡期で、”野わけ”と呼ぶに誠にふさわしかったのでしょう。ここでは、源氏物語の下味がついている、という風にとらないほうが、良いように思えます。
    鳥羽殿とは、鳥羽上皇が院政を執っていた鳥羽の離宮で、時は上皇が薨去されるか、されないか、という瀬戸際だったでしょうか。崇徳上皇は、御自分が治天の君として君臨されるよう、言質を取っておきたかったでしょう。順番では、そうなるはずだったのです。


    けれども、”自分が薨かったあとには、必ず世が乱れるであろう”と、予言なさっていたという、鳥羽上皇の側近は、崇徳さんを通しません。
    ”自分の遺体に会わせないように”とおっしゃったそうです。


    それで、崇徳上皇は、鳥羽の離宮内の、田中殿に一週間近く滞在なさり、埒が明かなくて、京へ御環幸なったところで、乱が勃発したように覚えています。


    実際の所、崇徳上皇が、騎馬で、京から鳥羽殿へむかわれたようには思えないのですが、でも、そんな風に考えると、そのドラマチックな、風雲急を告げる、一か八かの鳥羽殿行が、一幅の絵のように浮かび上がってきます。
    お気の毒な崇徳上皇は、乱の後、讃岐に流されて、すさまじい最後を迎えられます。死後も、太平記などでは、日本を転覆させる天下一の大天狗として登場するおどろおどろしさです。

    その崇徳さんの、運命を決する最後の賭けが始まる、まさに、その時を、理性的に句にした蕪村であった、と、言うのが私の正直な感想ですが、他の方はどう思われるか。興味がありますね。
    ニテンズさんにもご意見がおありかと存じます。
    鳥羽殿の近くには、北面の武士として仕えた西行・佐藤義清の自宅跡もあるそうで、でも、ここは、訪れたいとは別段思わず、若い日の彼の様子を想像するのが楽しいのです。


  •  北面の武士は、
    なぜ「北面」と呼ばれているのでしょうか?


    平安京が、白川上皇等が住まいとした鳥羽殿(鳥羽離宮)から見て北にあるため、
    そこから連れてきた武士だからかと思っていたら、
    どうやら、そうではないようです。


     ご存じの方、よろしくお願いします。


    >> 北面の武士は、なぜ「北面」と呼ばれているのでしょうか?


    「北面の武士」とは、院政時代に院の御所の警護に当たった武士のことで、院の北面に詰めたのでこの呼称があります。1087年に設置され、資格・人員は一定でなく院との個人的な間柄により、院司(いんし)の一つでした。

    上皇に直属し、院政を支える重要な武力でした。

    ご参考までに
     
    http://kotobank.jp/word/%E5%8C%97%E9%9D%A2%E3%81


     またその後に「西面の武士」(さいめんのぶし)というのもできました、「後鳥羽上皇の時、北面の武士に加えて置かれ、院の西に勤務した武士。院中の警固、盗賊の追捕(ついぶ)などに当たった。承久の乱後廃止。西面。にしおもて。と下記に定義されています。



    http://kotobank.jp/word/%E8%A5%BF%E9%9D%A2%E3%81


  • 正岡子規、高浜虚子が俳句において「写生」を重視したことは知られています。


    「写生」について、私は「眼前の事物(自然、人事いずれも可)を、主観を排して句にする」と
    解釈しています。


    この「写生」について、子規、虚子は与謝蕪村の句を模範としました。


    ところが、蕪村の句は、そのほとんどが眼前の事物を「写生」したものではなく、空想に基づく
    ものです。



    行く春や撰者を恨む歌の主
    鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな
    公達に狐化けたり宵の春

    それなのになぜ、子規、虚子は蕪村の句を「写生句の模範」ととらえたのでしょうか。
    こんにちは。
    わたしは俳句には詳しくないので、誰か回答してくれないかと毎日見ていたのですが、どうしても回答がつきません。
    その間に、こういうことではないか、と少しずつ推測しつつ調べていくと、写生というのはそれほど単純なことではないらしいことがわかってきました。


    最初に気が付いたのは、萩原朔太郎の「郷愁の詩人 与謝蕪村」という著作です。

    朔太郎はこの中で、子規らが蕪村の俳句を「客観写生」の規範として価値づけたことを批判しています。



    http://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/47566


    朔太郎の著作も古いものなので、これだけでは不十分だと思いますが、蕪村は芭蕉を尊敬し、目標としていたので、芭蕉を主観的、蕪村を客観的と分けることは、たしかに単純すぎるようです。


    昨日、書店に寄ったついでに、三省堂の「俳句大辞典」の「写生」の項を見ました。

    子規はこの写生という考え方を、おもに絵画からとったようですが、西洋の文学の考え方からの影響も少しあるようです。

    そして、子規は最初から「写生」という言葉を使っていたわけではなく、「写実」と言っていました。

    ある時期から「写生」という言葉に変わったとのことなのですが、この「写実」と「写生」は、俳句では分けて考えられているそうです。

    西洋風にいうと、現実をそのまま描写する「写生」はナチュラリズムであり、「写実」は、内容が事実であるか空想であるかには関係なく描写がリアルであること、つまりリアリズムであるといえそうです。


    それで、子規はこの「写生」と「写実」をまだ明確に分けて考えていなかったのではないかと考えたのですが、これについて、比較文学者の井上健という人の次のような解説がありました。


    写生
    対象をありのままに写す方法。明治以降、スケッチ、デッサンの訳語として一般化していたものを、正岡子規が短歌・俳句に導入した。子規自ら「写生といひ写実といふは実際有のままに写すに相違なけれども固より多少の取捨選択を要す」と述べているように、写生はもとより、虚構の要素を抜きにして成り立つものではなく、子規は、写生という用語でもって、リアリズム文学の方法を指し示していたことになる。

    https://kotobank.jp/word/%E5%86%99%E7%94%9F-186198


    つまり、主観を全く廃した純粋な客観的写生に限定してはいなかったと考えられます。客観的写生という考え方は、むしろ虚子においてより追求されたのではないでしょうか。
    虚子の曾孫にあたる俳人、坊城俊樹はこう書いています。


    虚子はその写生、つまり実際の景色や物をありのままに写しとることを、あるいはスケッチすることを一種類のものとしてとらえてはいなかった。そこに主観や客観という言葉を使っていろいろな到達点があると考えた。
    坊城俊樹の空飛ぶ俳句教室

    http://www.izbooks.co.jp/soraB14.html


    また、虚子と蕪村の次の二句を比較して、蕪村の句の方が写生としては正当であり、虚子の句の方は、写生を超えた客観描写であるとも指摘しています。


    白牡丹といふといへども紅ほのか 虚子
    牡丹散て打ちかさなりぬ二三片 蕪村

    http://www.izbooks.co.jp/kyoshi76.html


    このように見てくると、「写生」といっても、眼前のあるがままの情景を純粋に客観的描写したもの、と狭く限定したわけではないようです。

    子規や虚子は、客観的写生ゆえによってだけ蕪村に学ぶべきとしたのではなく、リアルな描写力も含めて考えていたのではないでしょうか。
    以上、素人の感想です。


    *************
    追記
    「秋の実り」という歌は見つかりませんでした。

    NHKの「みんなのうた」の一覧には載っておらず、NHKのクロニクル検索でも出てきません。
    記憶違いということはありませんか。図書館の資料目録に、「秋の実り」というタイトルの曲が収録されているらしい「世界民謡集」というものがあったのですが、これはアイルランド民謡で、併記されていた英語の原題で検索したところ、似ても似つかない曲が出てきました。

    そもそも、御質問に書かれていた旋律はアイルランドの民謡とは思われませんので、この本に載っているものは違うだろうと考えています。

    ほかの手掛かりは何もありませんでした。

    旋律は覚えていますので、もし一致するものがどこかで偶然見つかりましたら、何かの機会にお知らせします。

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